最新 日本古代史-その2- 5世紀〜

日本史,古代史,スサノウ,卑弥呼,神武天皇,天武天皇,持統天皇
2000年8月作製 2001年8月更新

@日本古代史1 @年表(〜8世紀)  @天皇一覧

日本古代史は次の2つの勢力の争いだ!

勢力

九州系(現天皇系)

環日本海系

地盤

百済(南朝鮮の西側)
九州、邪馬台国*九州説

新羅(南朝鮮の東側)、加耶(南朝鮮の真ん中)
出雲、越

進出地

神武天皇が奈良へ

奈良、尾張、吉備

親交

高句麗

人物

卑弥呼
神武天皇や天智天皇などほとんどの天皇
藤原鎌足(百済王・豊璋)、藤原氏

スサノウ、蘇我氏、葛木氏、阿部氏、物部氏、秦氏
継体天皇、欽明天皇、聖徳太子、天武天皇

*<説あり>「蘇我氏は百済出身」
*秦氏 書紀曰く「百済系渡来人」 弥勒菩薩は、新羅にしか生息しない種類の赤松で彫られている。住居は新羅様式だった。テュルクの技術(製鉄、武器製造)と新羅の技術(土木、建築、養蚕など)をヤマトに持ち込んだ。
*2001/04/19 平群町椿井の三ツ池遺跡の区画溝(七世紀末―八世紀初め)から、朝鮮半島の新羅製の緑釉(りょくゆう)陶器(七世紀初め-七世紀中ごろ)の破片が出土。貴重な輸入品である緑釉陶器は、これまで飛鳥寺や飛鳥池遺跡などの公的な限られた遺跡から出土している。外側全体に明るい緑色の釉薬がかけられている。破片の上段には水滴形、下段に半円のスタンプを押したような「印花文(いんかもん)」が施され、七世紀初めから中ごろのものと判明。高安山の山頂から東へ約4km。

5世紀〜

倭の五王 わのごおう
5世紀 中国の宋に倭の5人の王が使者を送って来た。

5世紀前半、秦氏(新羅から)・東漢史(加耶から)・蘇我氏が渡来

5世紀後半、雄略天皇が葛城氏を滅ぼす。 葛城氏…出雲系、蘇我氏の元

25代武烈天皇が平群氏を滅ぼす。 平群氏(へぐりし)…蘇我系

一応全部読んだぞ 「興亡古代史」小林惠子・文藝春秋

記紀に出てくる有名人物は、すべて外国人だ!
古代日本を東アジア史の中で考え、日本の有名人は外国の文献に必ず比定できる人物がいるとの信念に基づき、日本及び諸外国の膨大な資料を研究した結果の本である。普通の人なら一生かかっても研究できない量をこの人はなさっていて、素人には知識の及ばない所だらけだけれども、たぶん、何10年後には、偉大な歴史家としてその名が残る方なのでしょう。

素人の素朴な疑問として、

  1. 言葉はどうしていたのだろう。何語でしゃべっていたのか。日本語・中国語・朝鮮語・西アジアの言葉?
  2. 日本の王になるというのはどういうことなのだろう。「俺が王だ」と言えば王様なのだろうか。3種の神器を奪えば王なのか?

古代日本の歴史上人物

 

小林説

卑弥呼

 

江南の巫術者・許氏

神武天皇

 

 

倭の五王
わのごおう

 

 

応神天皇

 

五胡十六国の中の秦の一族・苻洛

仁徳天皇

 

高句麗の英主・広開土王(好太王)

秦氏
はたし

5世紀前半 第15代応神天皇の時に新羅から移住した。
京都山城 広隆寺 神奈川県秦野
鉄 灌漑 農業 養蚕 機織り 軍事
秦河勝。京都広隆寺。奈良御所市。聖徳太子のパトロン・ブレーン。

 

蘇我氏
そがし

畝傍山西の蘇我川流域の蘇我に移り住み、その後、飛鳥へ進出。葛城氏の元。
[説あり]-「5世紀後半、百済の高官、木満致(もくまち)が高句麗との争いに敗れ、日本に来て、蘇我満智(まち)となった。父は蘇我石川宿禰。」
[説あり]-「孝元天皇、竹内宿禰(たけのうちすくね)を祖先とする」
蘇我氏の本拠地に、スサノウ神社やオオトシ神社があったり、出雲神社の真後ろの神社がソガ神社だったり、蘇我氏と出雲の関係は深いことがわかる。

 

継体天皇
けいたい

507年、第26代天皇。越前出身、大和に入るまで20年かかった。環日本海系。以後7世紀半ばの第37代天皇まで、約150年間は継体天皇の子孫が天皇。それをうち破ったのが九州系の天智天皇だ。
磐井の乱

 

蘇我入鹿
そがのいるか

[説あり]-「入鹿=高向王(斉明天皇の最初の夫)」
そうすると、<1>斉明天皇は、前の夫が殺されるところを見てたわけ。
そうすると、<2>天武天皇は入鹿の子ということになり、大化改新のかたきを壬申の乱で取ったことになる。

 

聖徳太子

蘇我系。タシリヒコ?百済法王?

中央アジアの遊牧民・西突厥の達頭可汗 

大化改新

孝徳天皇のもとで、中大兄皇子が皇太子となり、左大臣(総理大臣)に阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、内臣に中臣鎌足がなった。
新都を難波の長柄豊碕宮にした。飛鳥には、蘇我系なので怖くて都をおけない。
蘇我倉山田石川麻呂は649年、天智天皇に対する謀反の罪で自殺においこまれている。孝徳天皇の妃は、倉梯麻呂の娘の小足媛(おたらしひめ)で、有馬皇子を生んだ。

 

天智天皇
てんち

第38代天皇。天智の「智」は、中国の殷(いん)の紂王が死ぬときに身につけていた宝石の名前で、次の「武王」に滅ぼされることを暗示している。

百済王子・翹岐
天武に殺害された 

天武天皇
てんむ

第40代天皇。天武の「武」は、殷(いん)の紂王を滅ぼした周の武王の「武」からきている。
<説あり>「天武は漢皇子(あやのみこ)。父は蘇我系の高向王(たかむくおう)、母は後の斉明天皇。」
<説あり>「天武は新羅の金多遂」
まあどの説にしても、環日本海系(新羅・出雲・物部氏・蘇我氏)。都を蘇我氏の本拠地の飛鳥に置いたのも、そもそも天武は蘇我系の人間だったことがわかる。

高句麗将・蓋蘇文。父は高向玄理。

役行者
えんのぎょうじゃ
円小角
えんのおづぬ

葛城山で修行し、修験道(しゅげんどう)を開く。壬申の乱の直前、後の天武天皇を助けた。持統天皇の時に、伊豆へ流された。行基(ぎょうき)や道鏡(どうきょう)も葛城山で修行した。

 

持統天皇
じとう

天武の妻。天智の娘。天武系(環日本海系)ではなく、天智系(九州系)として生きたようだ。

天武の子・高市皇子

藤原鎌足
 

百済王・豊璋?九州系(九州・百済・天智天皇・現天皇系)
<生まれ>飛鳥大原。鎌足ご使用の井戸がある。
<住まい>大阪三嶋
<死去>669年、55才、 「藤原」の氏をもらい、最高冠位・大織冠を得る。大織冠をもらったのは2人だけ、もうひとりは余豊璋。
<寺>大阪の広陵町の百済寺
<墓>談山神社の奥、奈良盆地を一望できる、こんな所に個人のお墓を作っていいのだろうか
書紀曰く「644年、蘇我入鹿(馬子の孫)が山背大兄(太子の子)を殺害」。本当の犯人は藤原鎌足であるらしい。
<説あり>「山背大兄は太子の子ではない」

百済の大官・智積 

百済王・豊璋
ほうしょう

百済の王子で人質として631年来日。白村江の戦いで百済に舞い戻るが、味方の将軍鬼室福信(きしつふくしん)を殺害し、百済滅亡を招く。このあと行方不明。

 

藤原不比等

藤原鎌足の次男。<説あり>「天智の子」
659年生まれ、720年死去。10歳の時に、父が死去。壬申の乱672年が13歳。690年持統天皇が即位、持統は45歳、不比等は31歳。 700年(文武天皇四)刑部(おさかべ)親王とともに「大宝律令」の作成にかかわり、翌年大納言、708年(和銅元)右大臣。さらに律令の改正に専念し、「養老律令」を完成させた。

 

竹取物語
かぐや姫のお話。作者…紀貫之。9世紀。最悪の車持皇子(くらもちみこ)は、藤原不比等のこと。

729年、長屋親王45才(高市皇子の子・天武の孫)が藤原氏に殺害された-天皇であった?
藤原氏は九州系なので、環日本海系の天武天皇系を排除した。
737年、藤原不比等の4人の子が天然痘で死去。たたりか?
4兄弟の妹の光明子(聖武天皇の皇后)が、滅罪寺を建立。

<参考図書>
「興亡古代史」小林惠子・文藝春秋・1998年初版
「古代日本正史」 原田常治 同志社 1976年初版
「消された覇王 伝承が語るスサノウとニギハヤヒ」 小椋一葉 河出書房新社 1988年初版
「最新邪馬台国論争」 安本美典 産能大学出版部 1997年初版
「大和誕生と神々」 田中八郎 彩流社 1996年初版